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浄化してしまいたい

思い出したくない嫌〜なエピソードをネタにして浄化する

本当はバスケ部なんて入りたくなかった

私の地元は関東圏でありながら結構な田舎で、台風が来れば電車は止まり、土砂崩れで道も塞がることもしばしばだったのでその当時陸の孤島などと呼ばれていた。

小学生の頃、近所の仲が良かったお姉さんの影響でミニバスを始めた。

物心ついた時から太っていた私は、その体型を裏切らず足は遅く、運動神経も良くはなく、自転車の補助輪が取れたのも小学1年の終わり頃だと記憶しているし、逆上がりもなかなか出来なかった。(今は逆上がれるが腹肉を巻き込んでしまうため上がったまま下がれない)

正直楽しくはなかったが友達がいたので何とか通っていた。親が厳しくサボることもあまりできなかったというのもあるが。

 

中学進学を控えたある日、ミニバスの練習をしていると、見慣れない太ったおっさんが来て、私たち6年生を集め話を始めた。

ようは、中学になったらバスケ部に入るようにと勧誘しに来たのだ。おっさんはバスケ部の顧問だった。

一人の女子を抜かして、私含む皆がバスケ部に入部したのだが。

まあ練習が厳しかった。

練習開始時間には顧問は現れず、決まって2〜3時間遅れてやってくる。その時間生徒たちだけでアップしていたのだが、休みの日に時間になっても来ない男子がいて、顧問が来ても現れず、それがサボりだとわかると、顧問は練習を辞め全員を学年男女別にコートのラインに並ばせ、笛を吹いて向こうのラインまでダッシュさせた。

それを何度も繰り返す。恐怖の「ダッシュ」だ。

そいつが練習に現れ謝るまでそれを繰り返し行った。きつかった。マジできつかった。

「連帯責任」

顧問はそう言って何か部員がお気に召さないことをするとダッシュを乱発していた。そのダッシュを、我々バスケ部は何より恐れていた。

つっても万引きとかタチの悪いいじめとか殴り合いの喧嘩とかの本当にやばいことはなかったと思う。私が知らなかっただけか?

「うちの部はマネージャーは置かない、球拾いもさせない、全員を試合に出させる」というのが顧問の決まり文句だったけど、それなりに強くなり県大会でも男女共に上位に食い込むようになると、普通にしてたらCチームどころかDチーム(控えの控えの控え)だった私なんて全く出番はなかった。

それだけは良かった。だって試合なんてボールが来たら慌てちゃって何したらいいかわからんもの。ボール回ってくんなと思いながらコートを右往左往していた。

一度超点差が開いた時だか練習試合だかで出された時なんて、パスのつもりで投げた球がゴールに入ってしまい爆笑をさらったことがあった。

「あっきー!!」とチームメイトを呼んで投げた球がゴールに入った途端あっきーはポッカーン、ベンチにいたスタメンは爆笑、顧問は苦笑いだった。

正直私の部活内での立ち位置はそんなおとぼけキャラだったけど、あの時実はすごく恥ずかしかったからね?!だからなるべく試合に出なくていいように、スコアをつけたり準備や片付けを頑張ったりしていた。マネージャーのように。

そんな時顧問から

「江口はプレイングマネージャーにならないか?」

と打診があったが、まっっったくバスケに興味が無かった私は

「……はあ」

としか言わなかったし、それ以降その話は出なかった。

 

しかしその後。バレー部のこっちゃんから声をかけられてこんなことを言われた。

「えぐちゃん、バスケ部でマネージャーみたいに頑張ってるんだってね。なかなか試合に出られないのに。私もバレー好きだけど活躍出来ないから、先生にマネージャーやらないか、って言われたんだ」

私は黙ってきいていた。

「……先生にもうこの話聞きたくないか?って言われて…はい。って言っちゃったんだ。その後、バスケ部のえぐちゃんの話を聞いて…試合出られないのに文句も言わずお仕事頑張ってるって。バスケ部の江口みたいになりなさいって。私感動して涙出ちゃった」

 

…………………………

 

この時の私の気持ちがお察し頂けるだろうか?

全くバスケに対する執着なんてないのに、勝手に私の立ち位置を美談に仕立て上げ、あまつさえそれを良い事のようにバレー部に吹き込み、純粋にバレーが好きだけど試合に出られない、こっちゃんの立ち位置を固定しようとした顧問達への気持ちが。

 

その時も私はよくわからなくて「あ〜、私バレー部でそういうことになってるんだ…」としか思わなかったけど、

「いやいやいや!私なんてバスケなんて嫌いだから!試合出たくないから雑用やってるだけだし!バレーが好きだって言えるこっちゃんの方が偉いしすごいし尊いから!!」

とこっちゃんの肩をガクガク揺さぶりながら至近距離で訴えれば良かったと後悔している。

(その後地元の同窓会でこっちゃんに会った時、話した気がする…こっちゃんははぁ?って顔してたけど)

 

じゃあ何でバスケ部を続けたのか?という話になるのだが。

ズバリ選択の余地がなかったからである。

田舎で当時から過疎化が進んでいた地元は、野球部、柔道部、剣道部、バレー部、吹奏楽部、テニス部くらいしかなく、陸上大会の時期には各部から選抜して試合に出ていた記憶がある(もちろん私には関係ない)。

美術部もかろうじてあった気がするが、顧問は美術室の床に埃が溜まっても掃除はしなくていいと言い張るちょっとやばいおっさんだったし部員も幽霊部員が2人とかだった。

私は圧倒的に文化系だったし、もっと熱心な美術部があったら…演劇部とかがあったら…せめて家庭科部があったら…と思っては歯ぎしりをする日々である。

 

だけど、わかってるんだ実は。

本当にやりたかったら、家で好きなだけ絵を描いていれば良かったし、家庭科部も一人でも設立すれば良かったし、演劇部も台本だけでも書けば良かったんだと。でも当時の私には、自分に何が向いてるかなんてわからなかった。だから自分が全く活躍できないバスケ部に仕方なく所属し、自己肯定感を全く養えないまま地元で過ごすしかなかったんだと。

 

選択肢が少ないというのはなかなかの苦痛だ。

時代もあったのかもしれない。私たちの時代は足が速いとか運動神経がいい奴が持て囃されていて、勉強やその他が得意な子はあまり評価されなかった。

 

今はいい時代だな〜なんて思いながらこのブログを書いている。

そしてこの歳になってハマった漫画作品の2次創作をするようになり、少し読んでもらえるようになってからやっと、あの時の私が報われつつあるような気がするのだった……。